感じる心(3・4・5歳児クラス / にじグループ)

昨年度の担任から子どもたちの好きな玩具として「プリズモ」が好きということを聞いていたので、環境に設置してみると、子どもたちは何度も繰り返し楽しんでいる姿が見られるようになりました。
繰り返し楽しむ中で"配色"にこだわったり、模様を工夫したら始めたりと"色"への興味が出てきたように感じました。




ある日、『はっぱきらきら』という絵本に"クローバーの葉っぱを太陽の光にかざすと、模様が消える"と載っていることに気づき、実際に散歩先でやってみました。
「本当だ!!」
と目を丸くする子どもたち。
クローバーの葉っぱ以外にも、絵本に載っているものと似たような葉っぱを探して比べたり、実験してみたちしながら胸を躍らせて"もっと知りたい!!"というような気持が芽生えているようでした。




『はっぱきらきら』の経験をしたことで、プリズモを太陽にてら照らしてみる姿が増えてきました。
透けているパーツとそうでないパーツによって光の通り方が違うことに気づいたり、配所によって違う配色になることを楽しんでいました。




担任間で"陽の光"に興味が湧くようなあそびを楽しめるように話しました。
ちょうどその頃、クラスでは折り紙で切り絵を楽しむ姿があったのでそこからステンドグラスづくりを提案してみました。
異なる色のカラーセロファンを重ねると色が変化することに気づき、様々な色を重ねて色を作ることを楽しみました。




数日後、子どもから「使い切ったセロハンテープの芯にカラーセロファンを貼ってのぞいたら綺麗かも!」という声が上がりました。
子どもたちの声を受けて"きらきらめがね作り"を行いました。

眼鏡にしたことで視界がすべてカラーセロファンで覆われていたので子どもたちはワクワクした表情を浮かべていました。





そんな中、
「きらきらめがねを持ってお散歩に行きたい」
という声が当たり、お散歩先に持っていきましたが、あいにくの曇。
子どもたちの想像とは違っていたからか残念そうな姿がありました。
子どもたちの中では「きっとこうなるだろう」という予測があったのだと思います。
そこで、保育者は
「どうしてだろうね?」
と投げかけてみると、
「もっといっぱいに晴れた時の方がきれいだと思う」
と、陽の光の強弱で映る綺麗さの違いに気づいている様子が見られました。


そこで、部屋をもっと真っ暗にしてライトで照らすことにしました。
すると、きれいに色の影が映し出され、
「映画館みたい!」
「回してみたら綺麗!」」
と、以前よりも影のきれいさを感じたり、映し出された色を顔や洋服に当てたり、色を回して遊ぶ姿も見られられました。





きらきらめがねを回しながら見ていた様子があったので、お部屋に"万華鏡"を置いてみることにしました。
子どもたちは万華鏡の存在にすぐに気づき、のぞき始めました。
電気や窓を見て光の強弱を試したり、万華鏡を回して模様を楽しんだりする姿がありました。
そんな中、
「これ中に何が入っているの?」
と万華鏡の模様に興味を持ったお友だちがいました。
子どもたちと話し合い万華鏡を分解して中身を見てみることにしました。


万華鏡の中身は、ビーズや鏡だけ。
これなら自分たちにも作れると思ったのか、代用できそうなものを考え、作り始めます。
それらしいものは完成しましたが、子どもたちはただただ本物に近いものを作りたがっている様子で、保育者の願う"不思議に思う心""考える心"科学する心"には結びついていないと思いました。




そこで、"子どもたちがどこに思いを持っているのか"を見るために、部屋に鏡(ミラーシート)を置いてみることにしました。
あそびの中で鏡に触れると、2枚の鏡の重ね合わせに驚いたり、角度によって映るものが違う、という発見を次々していました。








発見をするたびに、
「鏡の枚数を増やしてみよう」
「数枚並べた鏡に花模様を描くには、どうする?」
「人形あそびに鏡を使ってみたらどうなるだろう?」
など、鏡の使い方を自分たちで工夫しながら遊ぶ姿が見られました。
試してみることで疑問を持ち、また試していく心の育ちを見ることができました。



<考察>
レイチェル・カーソンの著書「センスオブワンダー」に“「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない”という文章があります。
子どもたちに“感じる”ことを楽しんで欲しい、触れて、見て、感じて考える事で子どもたちの世界は広がっていくと思い、今年度のクラス目標に「感じる事で広がる世界」とたてました。
子どもたちは様々なことを感じ、またそれを表現しようとしていましたが、子どもたちがその時に感じている事を汲み取り、寄り添うことの難しさを感じました。
また、“感じる”ことに重点を置きすぎてしまったことで子どもたちに経験してほしい部分が薄れてしまったようにも思います。

プロジェクト保育”というものを改めて考えてみると、子どもたちと目標をたて、仲間と力を合わせながら、自分たちで乗り越えたと思えるようきっかけがあった方がよかったのか、今回のように子どもたちが感じることを受け止めながら、遊びの広がりを楽しんでいくのがいいのか、でもその瞬間に感動していたらそれでいいのか…そもそも子どもたちにとっての“学び”とは何なのか…
今回私たちが大切にしてきた子どもたち自身に感じてもらうことは子どもたちの心という畑を耕す物にはなったと思います。
しかし、それで満足するのではなく、保育者として子どもたちにとって必要な関わりをもう一度考え、そのために必要なことを学びながら子どもたち自身が、自分で“芽を出したい”と学びに向かう力を持つことができるような関わりを目指していきたいです。

コロナ禍で遊びをすすめるにあたって、遊びの繋がりが切れてしまったり、子どもの興味 がどこまで続いているのか、どこに向いているのかなどの見極めが難しかったように思います。
そして、大きな反省としては、私たち大人が“コロナ禍の保育”に慣れてしまっているということです。
町だけでなく、公共の施設等に足を運び、子どもと園外に出て見て、触れ、感じるという事をプランの選択肢に入れなくなってしまったと感じます。子どもたち自身が世界を広げていくには本物に触れ、目を向ける世界を広げていく必要があります。
もう一度コロナ禍での保育について考えていきたいと思います。